鰹節の歴史

焙乾やカビ付けという特徴的な製造工程を持つ鰹節。現在の造り方に至るまで、長い年月の間、試行錯誤を繰り返してきました。現代の鰹節は、多くの職人の知恵や工夫の結晶なのです。

1. 鰹節以前

鰹節に近いものが日本の文献に登場するのは奈良時代の和銅5年(712年)のことです。日本最古の歴史書である古事記に登場する「堅魚(カタウオ)」が、鰹節の原型とされています。

堅魚は3世紀中頃、弥生〜古墳時代には作られているため、古代人は堅魚(カタウオ・干しカツオ)と煮堅魚(ニカタウオ)と堅魚煎汁(カツオノイロリ)を創案したとされています。 堅魚はカツオを素干にしたもの、煮堅魚は煮てから干したものです。堅魚煎汁は煮堅魚の煮汁を煮詰めて作ったもので、調味料として使われてきました。

日本列島の太平洋沿岸、黒潮流域で豊富に漁獲されるカツオは重要なタンパク源でした。大宝律令や養老律令には、大和朝廷はカツオが取れる国々に対して、カツオ浦(カツオを水揚げする湾)を定めて煮干しカツオと煎汁の献納を強制していたと記されています。

特に、煎汁は大陸伝来の調味料(未醤<ミソ>・醤<ヒシオ>・酢などの発酵性調味料)と肩を並べる純国産調味料として、飛鳥・奈良・平安時代を経て、鎌倉・室町時代まで重用されました。

その後、室町時代に農業の進歩し大豆の生産が増加すると、分煎汁のかわりに大豆を使った調味料が使われるようになりました。しかし、カツオを使った調味料の味を人々は忘れられなかったため、焙乾法とともに生まれた鰹節は日本の調味料として不動の地位を確立していきます。

2. 鰹節の誕生

室町時代に入ると、干しカツオや煮干しカツオに「焙乾」という技術が導入され、現在の鰹節にちかいものが作られるようになりました。

江戸時代に入る前から、焙乾小屋は、五島・平戸・紀伊・志摩・土佐各国のカツオ浦に建てられましたが、当初の焙乾設備は台所兼用のもので、囲炉裏の上にしつらえた平籠に卸したカツオを入れておくと、煮炊きする熱と煙により自然と焙乾されるものでした。 江戸時代初期に九州方面で造られた鰹節は、ポルトガル船・イギリス船などにより、平戸から琉球(沖縄)を経て明国・シャム国などに輸出されました。

その後、鰹節が広く世間で名声を得たのは、紀州の焙乾小屋が改良されて鰹節が進歩を始めてからです。大坂堺港の大商人や、京都の上流家庭で煮物・汁物料理が盛んになるにつれ、従来の調味料だけでは物足りなくなり、旨味を付加するために鰹節がだしとして用いられるようになりました。

江戸時代初期は、この紀州で作られた鰹節が「熊野節」の名で一世を風靡。ちょうどこの時期にたくさんの料理書が発刊され、その中で、調味料としての鰹節だしについて触れないものはないほど、必需品として取り上げられています。鰹節の力により、日本料理が形成されたといっても過言ではありません。

3. 紀州印南の漁師・甚太郎

カツオの漁法と熊野節の製法を土佐国清水浦に伝えたのが、紀州印南浦のカツオ漁民、角屋甚太郎親子とその一統といわれています。土佐藩は鰹節を藩の貿易品にしようと考え、熊野節の製法を積極的に取り入れました。

甚太郎は焙乾(燻乾)の創始者でもあります。甚太郎は元禄時代(1688)前後から安永(1780)ごろまで、煮熟・焙乾・カビ付けの草案を作るなどの功績を残し、改良したものは改良土佐節と呼ばれました。

それまではわらを用いての火乾でしたが、ナラ・クヌギなどの薪を使い、煙で燻す焙乾法が考案されました。また、従来の土佐節はカビが生えやすい欠点があり、カビ臭さが評判を落とていました。

土佐節に力を入れてきた土佐藩はすぐに改善にあたります。とられた対策の一つ目は、焙乾を徹底し、日乾を併用すること。二つ目は悪カビ退治のために、逆にカビを利用することでした。つまり、日乾した節をコモ(藁でできたゴザのようなもの)で包み、一面に良質な鰹節カビを付着させて悪カビの発生を防ぐというものです。 その後、改良土佐節は鰹節の大消費地・集散地(生産地から食物が集まる土地)だった大坂で主力商品となっていきました。

以上の加工方法により、土佐から大坂、さらに江戸までの長い輸送にも耐えられる改良土佐節が完成。この製法は秘伝とされ、甚太郎の故郷・紀州熊野に伝えられた程度で、長く他国へは公開されませんでした。

しかし、薩摩藩は土佐節の改良に関わった紀州印南漁民のひとりを招くことに成功し、その秘法を入手します。これによって、熊野節をしのぎ、改良土佐節に次ぐ優良節「薩摩節」が天下に知られるようになりました。

4. 鰹節職人・土佐与市

江戸後期には、紀州印南浦の住人で土佐与市という鰹節職人により、安房(1781年)・伊豆(1801年)の両国に改良土佐節を紹介されました。これを熱心に取り入れた伊豆では、土佐節の製法を見習った上で、カビ付けの回数を2~3回以上行い、脂肪や水分を節の中から抜く製法をあみだしました。こうして生まれた「伊豆節」は、改良土佐節と並んで全国的に高い評価を受けることとなりました。

「焼津節」は、直接与市から技法を伝えられたわけではありませんが、その起源は伊豆の改良節なので、元をたどれば与市によって授けられたといえます。

その後、改良伊豆節は全国に広まっていきました。後年、与市は望郷への念が禁じがたく、故郷の紀州印南に帰りましたが、秘法を他国へ漏らした罪により追い返されてしまいます。与市は房州千倉に引き返し、親交のあった渡辺家に身を寄せました。文化12年(1815)3月23日、軽い風邪が原因で、58歳で他界しました。

5. 本枯節

江戸時代に由緒ある製品として知られたのは、紀州、伊勢、志摩の節・土佐節・薩摩節です。明治時代に入ると、伊豆節が目覚しい発展を遂げ、土佐節・薩摩節・伊豆節が三大名産品と称されるようになりました。明治30年頃、土佐節と伊豆節の長所を取り入れ、徹底した焙乾と3~6回のカビ付けを行った「本枯節」である「焼津節」が登場しました。以後、鰹節業界の本流となり現在に至っています。

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